宍粟・播磨の城跡の「篠ノ丸城(山崎町)その1」
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篠ノ丸城(山崎町)その1
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2010年11月02日 15:59

 

篠ノ丸城跡のこと (その1)

 

 

   山崎町の篠ノ丸(ささのまる:324.6m)、通称一本松の頂上に篠ノ丸城跡があります。城跡や麓近くの最上山には毎朝多くの住民が健康のために登っています。

   この地は旧山崎町を眼下に菅野、城下、河東、神野、蔦沢地区の山崎町のほとんどが一望できる景勝地です。中世の14世紀の半ばに赤松一族により築城され、一時山名氏、尼子氏の支配を受けるが戦国時代の末期、赤松の一族である宇野氏の代に長水城とともに整備されたのが、今に残される城跡です。尾根上(登山口の正面奥と西側)に曲輪が配置され、畝(うね)状の竪堀群や横堀がはっきり見られる中世では大きな城でした。しかし、天正8年(1580)の羽柴秀吉軍の侵攻により長水城とともに落城したという。

  現在、山には木々が生い茂り、頂上からは全体を見渡せるところはありませんが、頂上から左の西の端からと登山途中に眺望ができるところがいくつかあります。北と西に延びる土塁や堀の跡を探りながら古城を偲ぶのも興味深いものです。

  

▼城址記念碑と城跡(山頂)

  

 

▼昭和初期の篠ノ丸(山)と城跡からの展望

 

▼現在の登山途中と頂上から見た蔦沢谷

 

 

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篠ノ丸城       

 

 篠ノ丸城が築かれた篠山は伊沢谷・菅野谷・揖保川谷が集まる山崎町に突き出た戦略的要衝の地に位置していたため、古くから赤松氏の一族である釜内小次郎家春が山岳陣地を築き、貞和年間(1345~50)頃には赤松貞範が城を築いたという。これが篠ノ丸の始まりといわれる。一時期、但馬の山名氏の支配下に入った播磨も、赤松氏が旧領を回復し、それに伴って再興された篠ノ丸城には、宇野氏が代々、これを家臣に守らせた。天文7年(1538)に、赤松政村は尼子詮久に破れ、この頃を境にして自立化を深めた宇野氏は篠ノ丸城を重要な城として位置づけてきた。天正8年(1580)の宇野光景の時、羽柴秀吉によって長水城とともに落城した。現在残る遺構は、その時のものである。(日本城郭体系より )

 

  ▼篠ノ丸城要図 

 

 

  

 篠ノ丸城は東西に伸びる笹山の尾根上に築かれており、視野のよくきく地点である。本丸を中心に尾根沿いに大・小の郭を設け、斜面にも幾つもの郭を設け、区画された平坦面の総数は40以上にのぼる。本丸は屋根中央のもっとも広い区画に位置し、二の郭は本丸のすぐ前方に位置し、大手口を守っている。三の郭は本丸西方の同じ屋根続きに築かれ、本丸より数m高い地点に存在し、西方の尾根高所からの攻撃を防いでいる(二の郭・三の郭は仮称)。

 本丸はもっとも広く、40m×55mの規模を持ち、南側に高さ0.5m、西側に高さ1mの土塁をめぐらせている。土塁は南側中央部分で切れて、現在、大手口からの登山道が通じており、土塁・空堀の状況から、この部分に本丸虎口(こぐち)が存在したものと思わせる。南側の土塁と二の郭との間には、幅3m、深さ1mのから堀が存在し、さらに、この空堀は規模が大きく、幅4m、深さ1.5mである。本丸北側の搦手となる部分には約20の区画された平坦地が3m前後の格差をもって2列で10段ほど続いている。この郭群の外側には5帯で城全体を取り巻く郭が存在し、さらにその外側には土塁を伴った堀(溝)が二重に存在している。一本の堀(溝)は三の郭付近から始まり、もう一本の堀は本丸西北下付近から始まり、いずれも本丸北方で終わっている。本丸郭群を保護するためのものである。この堀は北へ行くにつれて急傾斜を示し、郭群より低い位置を保っている。そして堀(溝)外は急崖となって自然地形となっている。

 

  二の郭は大手口を守るために築かれた郭である。大手口からの経路は二の郭を経て本丸南虎口に達している。二の郭は20m×25mの規模を持ち、その前方に4m、2.5m、6m、3.5mの段差をもって二列四段の小郭を大手道に沿って配置している

 

  三の郭は、30m×15mの規模を持つ郭を中心に、本丸方向に比較的規模の大きい郭が段差をあまり持たずに三段設けられている。また本丸西側沿いにも小郭が五段ほど段差をあまり持たず存在し、本丸背部の郭群に続いている。

比較的ゆるやかな先端南斜面には、三段に郭を設け、先端西斜面にも二段の郭を設けている。先端郭を自然地形の斜面に沿って西に下ると、尾根を切断して三か所に大堀切がみられる。また山麓に千畳敷とよばれる台地が存在している。

※ 虎口:城郭や陣営などの最も要所にある出入り口

 

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 ※文献  播磨鏡・赤松家播備作城記・播陽古城記

■播磨鏡  古城主ハ赤松ノ居城ナリシカ雲州ノ尼子出陣ノ時陣ヲトラレケルト也 其後宇野下総守ノ篠ノ丸  山崎町ノ北ニ有山也

出城ト成テ子息光景ヲ入置レケルカ如何成故ニヤ父子ノ中アシクシテ光景ヲ殺シテ家来海左兵衛ト云シ者ヲ入置レケルカ 是モ長水ノ城ト同時ニ落城シケリ

落ちやすきあられ玉や篠の丸

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■赤松家播備作城記

篠丸城 宍粟郡高家ノ庄

赤松越前守顕則 筑前守貞範ノ長子成 初築之居城而后移干 飾東郡庄山城也

宇野蔵人光景 宇野入道政頼ノ長子成 居城ノ所 天正2年父子不和故命家臣

殺之也

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■播陽古城記

山崎山城 笹丸ト云フ 宍粟郡山崎町

城主ハ釜内小次郎範春釜内祖ナリ 赤松同家ナリ侍従季房御八世ノ孫元弘ノ頃宮方ニテ軍ニ働キ建武ノ頃尊氏ニ嘱シケル

 

※篠ノ丸城 その2 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=13297…1310355367

 

 

 

 

 

 

「E-宍粟」支援隊そーたんs


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[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
Re: 篠の丸城(山崎町)
【返信元】 篠ノ丸城(山崎町)その1
2010年11月03日 22:46

ありがとうございます。
小学校5年3組の全員の記念撮影を本丸跡の
梅林前で撮っています。

当時の小学生には結構きつい山登りでした。
Re[2]: 篠の丸城(山崎町)
【返信元】 Re: 篠の丸城(山崎町)
2010年11月02日 18:51
私が中学校の時には冬のトレーニングで一本松に登っておりました。この写真の通りと思います。高校生になった時、同級生の久保田君がこの家から毎日通学しておりました。お家は僧侶でした。今はその家も妙見堂も解体され見る影もありません。
Re: 篠の丸城(山崎町)
【返信元】 篠ノ丸城(山崎町)その1
2010年11月02日 17:47

篠の丸城址、通称一本松にあった妙見堂

※「一枚の写真(No.7)一本松の妙見堂」 をご覧ください。
http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=6462&bbs_id=99