宍粟・播磨の城跡の「塩田城(山崎町塩田)」
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塩田城(山崎町塩田)
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2010年10月22日 15:26

塩田城のこと (その1)

 

 塩田城は、地元の人たちにもほとんど知られていない中世の城跡です。この城についての記録は、江戸時代に書かれた「播磨鏡」には、かろうじて領主の記録が残り、大正時代の「兵庫県宍粟郡誌」には、「昔城ありきと伝えらるゝも、今其の址と認むべきものなし」とまで書かれています。しかし、塩田城については昭和56年に発行された日本城郭体系に取り上げられ要図があげられていますが、先月、北播磨城郭研究家の藤原氏が地元の方の要請で調査をされ、その結果を冊子にまとめられています。

  そこには、ほんの一部の人しか知らなかった塩田城が実在していたことを、10回にも及ぶ現地調査と関連古文書調査で浮かび上がらせています。城跡前の集落には地名の政所や木戸の小字が残り、地元では今でも政所を“まどころ”と呼んでいます。その地名に残された地域の歴史が城跡の調査で明らかになりつつあります。   調査書「地区の山城 塩田城」を藤原氏の了解を得て紹介します。 

 

※播磨鏡には、「【鹽田構居】領主ハ小寺藤衛門尉政職 天文12年(1543)移此所同14年又移于御着城」

※兵庫県宍粟郡誌には、「菅野村鹽田の西山を城山といふ。昔此の處に城ありきと傅へらるゝも、今其の址と認むべきものなし。唯一の地蔵の像あるのみ。」

 

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地区の山城    塩田城   

 

 

はじめに

 

 宍粟市山崎町塩田には、かつて『塩田城』が存在していた。播磨国でも知られていた城で、近世の地誌(播磨鑑・古城記)にも記載があり、地元にも伝承が残されている。

 しかし、詳しく調べられた結果は定かではなく、伝承をその根拠にしている様である。その為に、現在残されている「城跡」を実地に踏査をして「城郭図」を描き、歴史的な事柄に検討をして、その実状に迫って見たいと考えるものである。

 概要として感じる事は、宇野氏の詰めの城である「長水山城」の出城である。勿論 現在の「城跡」は最終時期の姿であり、歴史的に何処まで遡ることができるのかが疑問であるが文献などを調べて推測してみたい。

「城跡」としては、小規模であるが戦国時代後期のこの地域を包む状況において、果たした役割は、決して小さくなくむしろ大きな意味を待った史跡と考えられる

 

 関 連 図

 

 

 

 位 置

   兵庫県西部、揖保川の中流域の宍粟市山崎町で、支流の菅野(すがの)川が合流する。この川の上流部に塩田谷筋があり、中央に「塩田集落」があって「字・政所」がある。この場所の向かい「字・谷」に「塩田城」が存在する。

  この城の位置関係は、西播磨の戦国時代における「宇野氏」の歴史的な立場による事から考えなければならない。特に、佐用郡が織田方なった天正7年(1579)10月以降、毛利方である宇野氏にとって内懐である蔦沢谷筋への不審者の侵入を防ぐ為には、どうしても押えねばならない重要なポイントであった。

  従って、塩田谷筋から「長水山城」への街道の入口には「大木戸」があったと考えられる。(字限図参照)

 

 

 

歴史的背景

 

1、 赤松伊豆守家領地

 

   天文年間の『春日部文書』に、宇野村春書状に「塩田村三ヶ村」が伊豆家領として記されている。この三ケ村は、「塩田村」「土方村」「塩野村・現在の塩山」であり、これらの「政所・まんどころ」が塩田にあったのである。

 これらが何時伊豆家に宛行われたのか?について考えると、次の様である。

応永16年(1409)9月4日の『足利義持御教書』に各地の領地と佐用荘上津方と共に土万郷が、伊豆家総領である「満則」への伝領が認められている。この「土方郷」がそうであり、宛行は、それ以前であろう。

  天文年間の年不詳、「宇野村頼書状」には、赤松守護家奉行の難波備前守に対して「この地を渡すので赤松晴政に披露して欲しい」と述べている。

 この事の確認の為に、赤松守護家の宿老であった「小寺政職」が、この城に来ていたのであろうから、最初の「城」は伊豆守家の政所を守る為に構築されてと考えられ、小寺氏が塩田城の城主と伝承されている事の実状と思われる。

 

2、宇野氏の改修

 

   宇野氏が赤松守護家の支配下にあった時期は、上記の事柄も実行されていたであろうが、天文21年(1552)室町幕府が尼子晴久に、備前・美作など6カ国の守護職を与えた。この事により、備前の浦上政宗が赤松晴政に離反して尼子晴久と結ぶ事態となった。

  この動きは、播磨国にも及び、この地域を管轄していた「宇野政額」も守護家赤松晴政と分かれて尼子氏と結ぶ事になり、西播磨の各地で戦う事になる。

  この様な状況下において、結果的に「城」は接収されるのが一般的である。

では 現在の城への改修時期を推測する事にすると次の様である。織田信長が「天下布武」を掲げて各地で合戦して、その支配地域を広げてきた。

 最初に西播磨に関係してきたのは、『天正3年(1575)9月、荒木村重が播磨奥郡に入り、人質を取り固め仰せ付けられる。10月20日、国衆参洛(信長公記)』とある。この時期、宇野家当主は「宇野祐清」である。

 天正5年(1577)羽柴秀吉、播磨に入り、上月城・福原城を落とす。この時の12月5日付、下村玄蕃助宛の羽柴秀吉書状に「作州之内、新免弾正左衛門尉人質を召連罷出候間、居城させ此方一味侯事」とあり、織田信長から吉野郡(美作)佐用郡(播磨)・八頭郡(因幡)の3郡が与えられている。(新免文書)

 この時点に於いて、宇野氏は、織田氏側であったが、天正6年(1578)7月に上月城が毛利氏軍により落とされた、それに伴い播磨の国人らが毛利側になる。

 しかし 翌年10月、それまで毛利氏と結んでいた「宇喜多直家」が離反して、羽柴秀吉の勧誘により織田側に寝返った、その結果、佐用郡が敵地になった。

その為「佐用郡からの防衛」を考慮する宇野氏により、改修されたと考える。

 その目的は、軍事的な事は勿論、情報管理の為に塩田村の入り口に「木戸」も設置されて街道の通行をチェックして厳重を期した。

 

城の構造

 

 「塩田城」は、塩田集落の川西山系から派生する尾根の先端部を利用した比較的小規模の山城郭である。舌状尾根の先端部を「二重の堀切」で区画し、土塁を持たせた削平部分を本郭にした単郭状で、南方向に数段の郭を設け南麓に屋敷を構築していた。

 「城と平地」の比高は30mであり、当時の街道の位置はもっと南方を通っていた。この城の防衛的な方向は、葛根(かずらね)からの街道を主として構成されている。

 山城で大切な「水場」がわからない、川が近い事も有りますが今後に期待する。

 

「本 郭」

 城郭の木部分を占める場所であるが、現在は潅木が茂り、数多くの倒木があって正確な形状が判り難い。南北36m・東西17mの舌状の土地で、北側には高さ3mの土塁が巡り、その両端にも低い土塁を配す。南端には下の郭へ下りる凸状の「虎口」と考えられる場所があり、3m低いところに「S-2」の郭がある。

 郭内は小さな段差により二段に分かれており、北に「お大師さま」を祭る祠がある。

西側に、「帯郭」を付随し、東側にも「小郭」を配置している。

 

「堀 切」

 2本の堀切の内、北の堀切は、巾2.5m、長さ15mで、東斜面に「竪堀」を構築して

いるが、西則は、炭焼真が作られた為に改変されており不明である。

南の堀切は、巾3.5m、長さ18m、深さ3m、で西に下がりながら、「西帯郭」へと続く。

 全体的に土塁状で、西に下がる部分ほ土塁として構築されている。この「堀切」の東斜面にも「竪堀」が予想されるが、崩れにて正鮭な事がわからない。

 各所に残石が認められるが、どの様に構築されていたのか、現状では不明である。

 

「帯 郭」

 南の堀切上り続き、西面の北側10mに構築されている。巾は、広い所で5mあり、この部分に「水溜」が予想される。西の街道を意識した配置で、この山城のポイントである西斜面の防衛を担当している。

 

「郭 群」

 「本瓢から南の麓にかけて3段の郭(S-2~4)が設けられている。

 その内「S-4」は石垣(高さ1m〕が構築されており、南麓からの防衛を意識した郭で、東西8m南北9mの逆L型で西端に下への「虎口」を設けている。

 「S-4」の実態は、近世の改変があり、良くわからない。

 また 東麓の川岸に巾8m、長さ17mの「E―3」郭があり、東方面の防御を意識している。本郭の東上部に「H-2」があり、堀切部の「横矢掛け」が考えられる。

 

「屋形部」

 現在、民家の建っている2段の平地について、東面に高さ2.5mの石垣がある。

  この石垣が、当時の物との確証はないが、山城への登城ルートから見るとこの場所に当たり積み方も古い石垣である。

 菅野川を渡る橋に付いては、有ったものか、場所がここであったのか定かでない。

 

図版

この山城の特徴を写真にて掲示する。

 

 

宇野上野守村奉書状(春日部文書)

 

 

 編集後記

 

 今年の4月に宍粟市千種町にある「千草山城」を発刊した。その際、地元黒土地区の皆様方の御努力で現地説明会が開催されました。地域の歴史的な財産として認めて頂けた事は、大変喜ばしい事であると共に「地区の誇り」であり、後世まで残る「史跡」ととして大切にされる様に思われます。

 そんな時、塩田地区の中川さんより「塩田にある城」について調べて欲しいお聞き致しました。私も以前に城跡を見た事があり、保存の良い遺跡と思っておりました。その為に十数回、足を運び調べた結果を小冊子に致しました。現在、「山崎の町屋形成」も調査中で、纏めて冊子にと思っておりましたが、時期も遅くなるので、先に「塩田城」を発行する事に致しました。

 この城は、宇野氏の地域支配にとって重要な役目を持ち、出城の典型としての基準となる物と考えられるので単独で纏める事にしました。

 現在の行政機関に当てはめてみると 

     篠の丸城 ・・・ 市役所

     長水山城 ・・・ 警察署

     千草山城 ・・・ 駐在所+市民局

     塩 田 城  ・・・ 交番  の様に考えて頂ければ解り易いと考えます。

 

 前回「※干草山城」及び今回の「塩田城」に於きましても、多くの方々の御教示と御協力を頂きました、紙面上でありますが、厚く御礼を申し上げます。  敬白  (文責・藤原孝三)

 

調査第11集 平成22年9月10日発行

 

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※ 塩田城(その2)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=13201…1309746024

※ 地名の由来「塩田」 http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=7528&…1265189830

  

「E-宍粟」支援隊そーたんs


書き込み数は3件です。
[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
Re[3]: 塩田城(山崎町塩田)
【返信元】 Re[2]: 塩田城(山崎町塩田)
2012年01月21日 15:31
赤松氏を考える場合、但馬の山城も見逃せません。
明日行く美作方面の城砦、
さらに、備前•摂津の城砦もーと考えると
時間不足を思わずにいられません。
これからも各地の城攻め、よろしく、お願いします。
Re[2]: 塩田城(山崎町塩田)
【返信元】 Re: 塩田城(山崎町塩田)
2012年01月21日 11:07
塩田城跡は山崎インターから車で15分ほどです。是非見てください。

最近私は、赤松ゆかりの山城を求めて、市外に出ることが多くなりました。初めて訪れた山城の歴代の城主やその一族が、激流の中世の何時頃にどのような働き・行動をとったのかを、頭の中を整理するのにかなり時間を取られます。

でも結構はまっています。そのうち、丹波方面に出陣しますので、先導をお願いしますね。
Re: 塩田城(山崎町塩田)
【返信元】 塩田城(山崎町塩田)
2012年01月21日 08:52
ご無沙汰です。
変わらぬエネルギッシュな城攻め
訪城録のぶろぐへのすばやいアップ、脱帽です。
塩田城は母の田舎にも近い所にあり
タケネットさんの記事を参考にして寄ってみたいと思っています。
とはいいながら、あっちこっち目移りする城跡が多すぎて
さてさて、いつになるやら (´・_・`) ですが。