宍粟の地名(由来)の「地名の由来「早瀬・力万」(上月町)」
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地名の由来「早瀬・力万」(上月町)
【閲覧数】2,300 【マップカテゴリ】上月町(現佐用町)
2010年10月14日 10:31
地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)

上月町(現佐用町)

■早瀬(はやせ)
 佐用川下流域の平地、高倉山の北西。白山満願寺跡に塔の礎石が残り、古墳などの遺跡もある。国道横の一本松は一里塚で、近年2代目の松が枯れ、3代目の松が植えられている。

 古代は速瀬郷といい、奈良期から平安期に見える郷名。「和名抄」播磨国佐用(さよ)郡八郷の1つ。「風土記」に讃容(さよ)郡6里の1つとして「速湍里(はやせのさと)」と見え、地名は川の瀬が速いことに由来するという。この川は佐用川である。また、速湍社の神は広比売命で、散用郡比売命の弟であるという。上月町早瀬が遺称地で、速湍里は現在の上月町の北半に比定され、「和名抄」では速湍里の北部は広岡郷となり、速湍郷は旧西庄村、現在の上月町中部に比定される。その後、中世に当地は見えず、慶長4年(1599)宇喜田秀家は戸川肥後守に早瀬の139石3斗の地を宛行っている。

 氏神は白山神社(早瀬神社)である。白山満願寺は天正5年(1577)上月城の戦いの兵火にかかって焼失したといい、塔の心礎のみ残る。現在は白山満願庵がある。明治22年西庄村の大字になり昭和30年からは上月町の大字となる。
 明治30年前後から畜産・養蚕を副業として生計を維持し、また婦女子は、わら芯切りを冬季の副業として取り入れ、昭和25年前後まで続いた。昭和11年姫新線が南東部を通る。


■力万(りきまん)
 佐用川支流大日山川流域の平地。地名の由来は、利器(兵器・武器)を作ったことによるか。荒神社が西畠と森ノ下に残っており、岡にはオフサノミコトを祀って神社跡があるほか、力万寺があったと伝えられ、山麓に五輪塔などがある。寛文10年(1670)の池田検地の時に西大畠村から分村したという。

 明治22年西庄村、昭和30年からは上月町の大字となる。明治24年西庄村役場を設置。同年西庄尋常小学校を設置。同35年西庄尋常高等小学校となる。
明治30年前後から畜産・養蚕に従事する農家が多くなり、昭和25年頃まで続いた。また、冬季のわら芯切りを婦人の副業として盛んに行った。大正12年電気架設。昭和11年姫新線が南部を通過。

◇今回の発見
・早瀬は風土記や和名抄に出てくる速湍里(はやせのさと)の明確な遺称地。土は上の中なりとあり肥沃な土地を示している。1300年もの間に川の流れや速さも変わっているようだ。
・力万は力仕事をイメージさせる。利器(兵器・武器)が作られた記録があるのだろうか。

「E-宍粟」支援隊そーたんs

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Re: 早瀬の土人形
【返信元】 早瀬の土人形
2010年11月18日 11:28
佐用高校の美術の先生が現在も作られてるそうです

旧香寺町の玩具資料館にも展示されてるとか?

兵庫の郷土玩具という本で知りました
2010年11月15日 13:57
早瀬土人形

 早瀬土人形は、明治の中期ころから約30年にわたって早瀬で作られていました。
 この土人形の制作は当地の瓦職人が京都の伏見人形の制作技法を学んだものといわれ、その作りは伏見人形と共通点が数多くみられます。内容も節供・歌舞伎・風俗・信仰・縁起・動物など多くの種類があります。
 そしてこのころの佐用郡では、節供に飾ったり、祀ったりする人形のなかに土人形も使用されており、早瀬土人形も数多く用いられていたようです。(上月歴史資料館の展示案内より)

※参考 早瀬土人形の手本となったという京都の伏見人形のいろいろ http://www.h2.dion.ne.jp/~hushimi/ningyo.htm

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