宍粟の地名(由来)の「地名の由来「寄延・目高・仁位」(上月町)」
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地名の由来「寄延・目高・仁位」(上月町)
【閲覧数】1,913 【マップカテゴリ】上月町(現佐用町)
2010年10月13日 13:06

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
上月町(現佐用町)

■ 寄延(よりのぶ)
千種川支流佐用川流域。地名は、村寄り合い、辻寄り合いの場所に由来するか。
寛文10(1670)の池田検地のときに西大畠村から分村したという。荒神宮を上月村の八幡宮に合祀した。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年から上月町の大字となる。

農業を主として生計を維持してきたが、明治30年前後から畜産・養蚕・製炭関係業に従事し、婦女子は冬季わら切りに従事して、生計を維持し、昭和25年前後まで継続。大正12年電灯架設。

■ 目高(めだか)
佐用川支流秋里川の北。寄延村の南西。後山(405.1m)北東の急坂山腹の階段状の地に集落がある。地名の由来は、高い所の意によるか。昔西大畠から移ってきたともいう。天正年間(157392)羽柴秀吉が上月城を攻めたとき、愛宕山周辺に大成陣屋があり、上月城の水源地、のろし場や枡形と、これらを守る大築地(土塁)が残る。後山の山頂近くの菖蒲(勝負)谷は上月城の飲用の水源であった。

寛文10(1670)の池田検地のときに西大畠村から分村したという。庄屋は下秋里村庄屋の兼務。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年から上月町の大字となる。
明治30年頃から畜産・養蚕を副業として生計をたてるようになり、昭和25年前後まで続いた。産物のコンニャクは京阪神で名高く、大正10年には130駄出荷、1駄34円で売却。山地で道路がなく牛馬の背、人の肩で荷物を運搬していたが、大正8年目高から寄延を経て上月に至る復員6尺・延長620間の道を開削。大正12年電灯架設。

■ 仁位(にい)
佐用川左岸、仁位山の西麓。地名の由来は、急斜面の山麓台地につくられた新しい村の意か。仁位山城跡は、羽柴秀吉が上月城攻略の前衛を置いた所で、山に10を超える壕跡も残る。

仁位・美土路(みどろ)の二集落よりなり、庄屋各一人がいた。天保7(1836)川荒れ5か年限り御用捨引き、嘉永元年(1848)秋洪水で新田6反余に被害。明治22年西庄村の大字になり、昭和30年からは上月町の大字となる。

明治23年・同25年・大正7年ともに洪水があり、堤防決壊、井堰流出の被害を受けた。大正7年7戸全焼。農業主体の経営であったが、明治30年前後から、畜産・養蚕を副業にした農家経営に移行、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。

◇今回の発見
・興味ある地名が並ぶ。仁位は、新(にい)からとするが、もっと何かありそうに思えるが。
・上月城は、播磨・美作・備前の三国につながる要衝の地にある。そこで繰り広げられた激しい戦いの記録が残る。
 
「E-宍粟」支援隊そーたんs


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Re: 地名の由来「寄延・目高・仁位」(上月町)
【返信元】 地名の由来「寄延・目高・仁位」(上月町)
2010年11月04日 15:48

目高の集落の写真をUPします。

 上月城の北麓の西に伸びる谷筋を登っていくと、すばらしい景観に遭遇しました。トタン葺きの家10軒ほどが急な斜面に仲良く並んでいます。日本の原風景そのものです。
 あとから、わかったことですが、「ひょうご風景100選」(2003.12)の本を手にしたとき、目高の地が選ばれていてほぼ同じところからの写真を見つけました。

「E-宍粟」支援隊そーたんs

▼目高の集落 ▼ひょうご風景100選 ▼高台からの眺望