宍粟の地名(由来)の「地名の由来「奥小屋村(神保)」(元宍粟郡菅野村)」
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地名の由来「奥小屋村(神保)」(元宍粟郡菅野村)
【閲覧数】2,722 【マップカテゴリ】山崎町
2010年10月07日 11:58
宍粟ゆかりの地 奥小屋村(神保)
~昭和14年まで宍粟郡菅野村に属していた地~

■奥小屋(おくごや)村

揖保川水系栗栖(くりす)川源流北方に位置する。江戸期から明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、元和元年宍粟藩領、延宝7年幕府領、元禄10年(1697)からは三日月藩領。

 当村は山間部に位置したため、再々山論が起こっている。享保年間(1716~36)に地内西山の帰属をめぐって当村と山崎藩領市場村・高下村の請所であった西山が当村の三日月藩領編入とともに領主変更となったことによる。このため、市場村の浪人時朝(ときとも)五郎左衛門が村人に代わって幕府に直訴した。彼は処刑されたが西山一帯は宍粟藩(山崎藩)領となったという。寛政12年(1800)には当村内の12か村入会を6か村にしようとする動きもあったが、もとどおりの裁許となった。神社は、八幡神社・明神社

〔近代〕奥小屋 明治22年から現在の大字名。はじめ菅野村、昭和14年西栗栖村、同26年からは新宮町の大字。昭和11年4月電灯架設。明治14年の戸数33、人口163.人、昭和14年戸数23、人口104人


■奥小屋村の神保(じんぼ)地区
 元は宍粟郡山崎町菅野村に属し、昭和14年新宮町西栗栖村に編入。
 西栗栖編入後も神保の小学・中学生だけは菅野村に通学していた。昭和初期には7戸程の家があり、藤田・山下の姓の集落。電気は、奥小屋村の最後に付けられ昭和30年架設。電話は要望するも架設されることはなかった。
 昭和47年に最後の住民が下山し、廃村となる。


◇今回の発見

 かつて、菅野村の南の西山に神保という村があった。今から約40年前に廃村となった。その神保に住んだ人たちは数少なくなり、その生活の記憶は月日の流れに消えかかろうとしています。このような事例は、前回の三日月の大下りでもありました。現在過疎化で「※限界集落」と呼ばれている地域が全国的にも、そして宍粟とその周辺の地にも目立ち始めました。神保の廃村は、そんなに昔ではない身近な地域の現実でした。地域活性の支援とともに宍粟や宍粟のゆかりの地の人々の歩みの記録をいつまでも残していきたいと考えさせられました。
※限界集落:住民の半数が65歳以上、共同体としての生活の維持機能が難しい集落

■西山由来記をご覧ください。
(しそうの逸話)映像「西山由来記」(前編)ナレーション版
http://shiso-sns.jp/blog/blog.php?key=12286
(しそうの逸話)映像「西山由来記」(後編)ナレーション版
http://shiso-sns.jp/blog/blog.php?key=12289

「E-宍粟」支援隊そーたんs

写真:「写真でつづる新宮の百年1993」より

▼地図   ▼奥小屋村(奥麦子)の風景 ▼栗栖池

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神保地区500年の歴史に幕
【返信元】 地名の由来「奥小屋村(神保)」(元宍粟郡菅野村)
2010年10月07日 14:23
◇神戸新聞昭和47年5月9日に伝える神保の廃村の記事◇

新宮町神保地区500年の歴史に幕
山あいのふるさとついに消える“最後”の山下さん離村

 昭和34年頃から、学校を卒業したこどもたちが買い物や通学に6kmから7kmもかかる不便な地をきらい、どんどん都会へ分散、昭和46年11月からは、最後の老母を抱えた3人世帯のみになり、電話の架設のめどがつかなく、老母の病気時の医者への連絡がつかないこともあり、7km離れた新宮町牧へ下山することになった。
「冬こそ雪が4~50cmも積もるが、春から秋にかけては、ウグイスや小鳥がさえずり、谷川のせせらぎの音を聞いて生活できる本当のいいところなんです。500年続いたこの平家村も私で最後になりました。」「60年も生活したこの土地を離れなければならぬのは残念です。」と涙を流していた。 


 神保出身の方に会って

 奥深い山里、神保の歴史は昭和46年に幕を下ろした。500年続いた平家ゆかりの地という。先だってこの神保のことを知るため、新宮町西栗栖に出かけ、神保出身の方を尋ね当て、直接お話を聞くことができた。
 村が新宮町西栗栖に編入された後も、神保の子どもだけは山越えすれば直ぐの菅野小・中学校へ通えるように手続きされ、昭和20年後半から昭和30年半ばまで菅野小学校を通ったとのこと。よく遅刻をして、朝礼の間にこっそり教室で待機していたこと。小学校1年のとき、同伴登校していた同村の上級生においてけぼりにされ一人で家に帰ったときの怖かったこと、などなど思い出話を聞いた。両親が無くなり結婚を機に下山したという。
 菅野村の小・中学校が、新宮の西栗栖小学校よりも、近くとはいっても子供にとって一山越えるのは、大変なことだっただろう。雪の多い冬場ならなおさら。歩くのがあたりまえの時代とはいえ、今では考えられない。
 平成10年7月の同村に残されていた阿波大明神、正一稲荷大明神の埋没式が神保のゆかりの人たちによって行われた。この式典を最後にこの地に訪れる人はまずいないだろう。

 廃村へは新宮の麦子(むいご)を抜け、栗栖池を通る道は閉ざされているため、山崎の高下からの林道を上り、途中から倒木を掻き分けたどり着くことができるが、道が荒れていてやや危険です。

 
※廃村神保のこと
http://shiso-sns.jp/blog/blog.php?key=11685 をご覧ください。


「E-宍粟」支援隊そーたんs

▼麦子(むいご)橋 ▼栗栖池(説明板) ▼現在の栗栖池