宍粟の地名(由来)の「地名の由来「乃井野」(三日月町)」
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地名の由来「乃井野」(三日月町)
【閲覧数】1,935 【マップカテゴリ】三日月町(現佐用町)
2010年09月29日 11:33
地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)

三日月町(現佐用町)

■乃井野(のいの)

 古くは納居納とも書いた。千種川支流志文川下流右岸に本村、左岸に徳平(とくひら)集落がある。中世に当地附近が石清水(いわしみず)八幡宮領船曳(ふなびき)荘となると、当地の日岡八幡宮は別宮として分神を祀ったという。徳平には、弥生時代後期の集落遺跡、中世の徳平城址がある。

乃井野村 
 江戸期~明治22年の村名。元禄10年(1697)三日月藩主森家が入封すると、小字清水にあった井上家の邸に入り、日岡八幡宮の敷地の一部を合わせて陣屋を築いた。今も御殿奥に一部石垣や、内堀・馬場跡などが残る。本乃井野は郭内と呼ばれ、明治初年の郭内図によると、表町を中心に、上に中の町・上の町・袋町・稲荷町・不動町・明星町、下に清水町・宿居(しゅくい)町・餌差(えざし)町・木鼠(きねずみ)町・下(しも)の町などがあり、今も町名が残る。藩士の数は約300で、大部分は郭内に居住していたが、地内の西脇(にしのわき)・徳平(とくひら)と三日月の田此(たこの)などにも居住した。藩校広業館は寛政7年(1795)5代藩主森快温(はやあつ)の時に創立、文学部150人、武芸部400人、遠くからも入学、寄宿生30人、職員30余人、廃藩まで85年間続き、多くの学者や人材を出している。その他幕末にできた藩の調練場である三方里(さんぽり)、旧藩の物見櫓(やぐら)、藩祖を祀る列祖(れっそ)神社などがある。明治22年三日月村の大字になる。


◇今回の発見
乃井野には、三日月藩の陣屋の眼下に町が栄え、城下町特有の字名が今に残る。5代藩主の時に藩校を開き、多くの人材を輩出している。平成になり陣屋跡の大規模な発掘調査のあと、陣屋の長屋門が復元され当時をしのばせている。


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▼マップ  ▼乃井野陣屋周辺 ▼陣屋からの三日月宿場風景

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三日月藩 乃井野陣屋跡
【返信元】 地名の由来「乃井野」(三日月町)
2010年09月29日 11:35
森家1万5千石の陣屋
三日月藩 乃井野陣屋跡(みかづきはん のいのじんやあと)

 元禄10年(1697年)三日月藩(乃井野藩)藩主となった森長俊(ながとし)が藩領支配のために置いた陣屋。三日月陣屋ともいう。三日月藩は明治維新まで佐用郡40カ村、飾西(いっさい)郡7カ村、宍粟郡18カ村の計1万五千石を支配した。延享4年(1747)から寛政5年(1793)の間は播磨国1万石余と美作国4万石余の領地を受けている。領内支配は乃井野組・新宿組・上津組・上月組・五十波組に分けられていた。

 元禄10年(1697年)に御殿山の麓に陣屋屋敷を設け、日岡(ひおか)八幡宮を鎮守社とした。また本郷村高蔵寺を森家菩提寺と定めた。陣屋と志文川との間に町割して家臣屋敷を配し郭内とした。陣屋町の大半は元禄13年(1700年)頃に完成したといわれる。

 旧三日月藩郭内之図によれば、郭内面積3万641坪余、石垣で囲まれた陣屋に隣接して列祖神社、その西側に日岡八幡宮、陣屋正面の馬場の向かいに藩校(広業館)、約290名の家臣屋敷(一部は志文川の東側)、南西端に演武場などがある。表門を出ると志文川に橋がかかり、三日月宿へと通じていた。商業地として町人居住の町場は志文川を越えた三日月宿場町が担ったようである。江戸期の家臣数は不明だが、明治4年(1871)の廃藩時には士族199・平民(中間・小者など)86であった。


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写真:「三日月藩乃井野陣屋跡」三日月町発行冊子より

▼陣屋の長門   ▼郭内図   ▼陣屋跡調査地全景