宍粟の地名(由来)の「地名の由来「中島・米田」(南光町)」
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地名の由来「中島・米田」(南光町)
【閲覧数】1,376 【マップカテゴリ】南光町(現佐用町)
2010年09月14日 13:40
地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)

南光町(現佐用町)

■中島(なかしま)

千種川と支流志文川の合流点。千種川の西岸に中島・那手(なで)の二集落がある。
高倉山東麓。地名の由来は、両河川の中洲・中の島であることによる。高倉山は西の櫛田、南西の山脇との境界で、美作街道が瓦坂を通っていた。羽柴秀吉が上月城攻めの本営を築いた山としても知られる中島砦があった。

平成2年の発掘調査で志文川左岸の河岸段丘上に縄文時代の竪穴住居が発掘されている。ている。那手集落の北背後の山頂(300m)に中世の中島城跡がある。同城の東側の丘陵上に立地する米田城の詰城といわれる山頂の主郭と数郭からなる小規模な遺構で南尾根筋に畝(うね)状空堀をもつ。
千種川流域の那手・坂田と、志文川から少し離れた如来田とは、地理的条件が大きく異なっている。水害は那手・坂田が多く、米田村と同じく、江戸期から度重なる被害を受けている。また、干害にも苦しんだ。高瀬船の船着場があった。

 明治22年中安村の大字となる。明治30年前後から農家の副業として畜産・養蚕を導入。婦人は冬期の内職にわら芯を切っていた。昭和25年前後まで続いたが、以後副業は成り立たなくなった。大正11年電気架設。昭和38年に豪雪、また昭和38・40・43・45・46・47・49・51年と洪水が続いた。

■米田(よねだ)
下徳久(しもとくさ)村の南、中島村の東、千種川(当地の称は熊見川)その支流志文(しぶみ)川との間に位置する。地名は、五穀豊穣を祈って付けたものか。米田城は熊見城ともいい、寿永年間(1182~1185)の築城とされ、天正5年(1577)羽柴秀吉に攻められて落城した。山頂西側のわずかな郭群と腰部だけを残す。城主は赤松伊豆守則景の弟宇野新太郎為助(佐用郡誌)、あるいは佐用三郎左衛門尉範家(赤松家播備作城記)というが詳細は不明。
 年貢米などは久崎村(上月町、現佐用町上月)川岸道程1里10町、駄賃1匁で運び、赤穂へ津出しした。
元禄10年(1697年)三日月藩領となる際に小山村を分村。氏神は八幡神社で、宝蔵寺・土井・小山・米田・安川5か村が氏子であり、寺院はない。

明和元年(1764)、同5年・8年・9年、寛政9年(1797)、弘化4年(1847)と、度重なる水害に遭遇している。
加えて干害もあり、藩領下で一揆が発生しており、税は平均6割5分と、苦しい生活を強いられた。
明治6年中州小学校を当村に設置。同22年中安村の大字となる。

※今回の発見
・高瀬船の船着場のあった中島村。久崎村まで年貢米を津出ししていた米田村。南光町の北部の三河等7村は天領であり、年貢米などは山崎の出石(いだいし)に運ばれ、高瀬船で赤穂へ運ばれた。南部13村は千種川の高瀬船が利用された。
・南光町のいずれの村々も災害の記録が多く残る。それでも、江戸期においてはよほどのことがないかぎり、毎年定められた年貢が課せられ、口にできる食料は生きていくだけの最低限のもの。地域の入会山(村山・野山)での芝草の盗み刈りなどが横行し(芝草は家畜飼料や肥料として大事なもの)のため、村境の争いも絶えなかったようである。


「E-宍粟」支援隊そーたんs

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