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播磨 上月城跡 (2)(佐用町)
2019年08月10日 19:14

 

こうづきじょう

上月城跡(2)  佐用郡佐用町上月

 

 

▲佐用川の東岸からの全景

 

 

▲上月城からみた眺め(北東)

 

 

▲播磨上月「浅野文庫 諸国古城之図」広島市立中央図書館蔵

 

三国の境の要衝地

 上月城は兵庫県と岡山県の県境近くにあり、古くは播磨国・美作国・備前国の三国の国境近くに位置し、内陸部の交通の要衝の地にあった。

 

城史・城主のこと

 南北朝以来、室町、戦国の各時代において中世山城が数多く築城された。佐用郡には45程の城跡が確認されているが、城史及び城主について不明または伝承のみで史実の裏付けがとれていないものが多い。

 秀吉軍の攻撃により落城した時の上月城の城主は本丸にある供養碑に赤松政範とあるが、大河ドラマ「軍師官兵衛」では上月景貞としており、諸説あるため確定できていない。

 

赤松氏本城白幡城の北の守り

 室町幕府の樹立に赤松村則(円心)が功績をあげ、播磨守護職を得た。上月城は赤松氏の本城「白幡城」(上郡町)の北の守りとして築城し、城は赤松一族が守り景盛の時初めて上月氏を名乗りそのあと盛忠、義景、景満と続いたと伝わる。

  しかし上月氏の一時期の所領は確認できるものの、上月氏と上月城とのかかわりを示すものは見当たらないという。

 

記録に残る悲劇の城

 兵庫県最西端の駅「上月駅」の少し南に上月城がある。荒神山(標高一四○m)に築かれた小さな城跡なのだが、実は戦国末期に織田方と毛利方の戦場となり多くの兵士と、非戦闘員の村人や女、子どもが犠牲となった悲劇の城である。 

 天正5年(1577)11月秀吉軍は佐用郡に向かい毛利に加担していた福原城を落とし、つかさず上月城を取り囲み、城兵の降伏を許さず切り捨て、落城させた。城内にいた女、子ども200人の内,女は磔(はりつけ)、子供は串刺しにされ、見せしめに三国の境にさらされたのである。

 

尼子家の再興の願い絶たれる

 このあと、秀吉方の尼子氏の遺臣尼子勝久と山中鹿介が上月城を守っていたが、天正6年4月今度は毛利方の大軍が攻め寄せ城を包囲した。それを知った秀吉は反旗を翻した別所長治の三木城を攻略している最中であったが、手勢を割き救出に向かった。高倉山に陣を敷くも時すでに遅く上月城は完全に封鎖されていた。秀吉軍は援軍を受けるも進展せず、6月信長の命が下り三木へ引き上げた。そのため上月城は頼みの援軍に見捨てられたため、7月降伏し尼子勝久とその一党の切腹によって城は開城された。山中鹿介は備中松山(高梁市)に護送中阿井の渡しで殺害された。これにより鹿介が願った出雲の名族尼子家のお家再興の願いは完全に潰えた。

 当時の戦いの様子は最後に勝利した秀吉の記録文書にその子細が残され、また毛利家の文書・吉川家の文書等にも残されている。

 

 上月城山裾の登山口近くに、上月歴史資料館と皆田和紙の紙漉き伝承館がある。毎年10月下旬に上月城ふるさと祭りが盛大に開催される。

 

 

 

 

※情報誌「おくはりま 2017春号」城郭シリーズ執筆掲載より

 

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 上月城(1)http://shiso-sns.jp/bbs/bbs_list.php?root_key=15046…bbs_id=122

 


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