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地名の由来「櫛田(上櫛田・下櫛田)」(上月町)
2010年11月04日 12:05

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)

上月町(現佐用町)

 

    櫛田(くしだ)

千種川の支流滝谷川流域。地名は、川沿いの砂丘・小丘が長く連なった地形から名付けられたと思われる。滝谷川には郡で一番高い飛竜の滝(写真下)がある。北西の高倉山は往時高倉寺があり、羽柴秀吉が上月城攻略の本陣を置いた高倉城、宮山に櫛田城跡もある。原には福円寺があり、塔の石は大正末期に、長谷川災害復旧工事の際、壊して石垣にした。

  文明13(1481)9月日の上月満吉知行目録写に「一、櫛田庄乃事」と見え、当庄は上月氏の知行地となっている。享保元年(1716)当村が幕府と安志藩との相給になるのに伴い、幕府領を下櫛田村、安志藩領を上櫛田村として分村したとう。ただし、すでに「元禄郷帳」では上櫛田村・下櫛田村とに分かれて記されている。

 明治9年下櫛田村と上櫛田村が合併して成立。明治22年久崎村の大字となり、同30年上月町の大字となる。

 明治30年前後から養蚕・畜産を副業としていたが、わら芯きりを始めた。稲わらの穂先はほうき、次の節間を6寸芯、次の芯を5寸芯といい、麻裏(あさうら)草履、下駄の表材料として売却、郡内で最初に始めたのが当地で、郡内では平福村・石井村以外の村々で、冬季の婦女子の副業として広まった。1日平均1貫目を生産、一戸平均60円程度を稼いだ。郡内に仲買人が数名、奈良県・岡山県・静岡県に出荷した。当地は養蚕農家が少なく、ほかからわらを買い、夏季も従事したという。

 

    上櫛田(かみくしだ) 

江戸期から明治9年までの村名で、須山・奥村・平谷の3集落がある。ただし、下櫛田村と当村の住家は混在していた。平谷に延宝5年(1677)までには舟着場ができ、蔵元・問屋が置かれ、年貢米等が高瀬船で赤穂へ運ばれた。延享4年(1747)の願書(井上文書)によれば、舟4艘を所持していたが、川水が干水がちで舟の傷みが多いため舟稼の廃業を願い出ている。

 寛保2(1717)の凶作では、高のうち割2分を免除された。その他不作時には、1、2割の減免はしばしばであった。

 千種川の支流滝谷川の源流の標高220mの地点から落下する高さ20mの飛龍の滝は江戸時代から播磨の名爆として知られていた。

 

    下櫛田(しもくしだ) 

原・滝谷・井の谷・石井の4集落。上櫛田村の北に石井・井の谷、南に原・滝谷の2か所に分かれて、井の谷の住民の半数は浄土真宗で上櫛田村に属した。また上櫛田村村に転住するものもあるなど、両村民の住家は混在する。

 石井集落の後方、千種川西岸の高倉山城跡がる。天正6年(1578)4月中旬、毛利方に攻められていた山中鹿介らの篭る上月城救援のために羽柴秀吉・荒木村重らが入城するが、626日に引払っている。

 

    今回の発見
・櫛田村はわら芯きりを始めた郡内で最初の村。副職として箒や草履に使われる材料として生産していた。

 ・高瀬船の運営の難しさの一端がわかる。川の水量が少ないと船の傷みが激しいという。

 ・高倉山城は秀吉が入城した所(上月城の東方の山頂)。今に名を残す山中鹿介は織田側の都合により秀吉軍の援軍を得られないまま、上月城に籠城のすえ毛利軍により落城した。

 

 

「E-宍粟」支援隊そーたんs
▼櫛田マップ ▼飛龍の滝


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