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地名の由来「久崎・家内」(上月町)
2010年11月02日 13:17

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)

上月町(現佐用町)

 

     久崎(くざき)

千種川と支流佐用川の合流点。地名は「風土記」に見える久都野の転訛とする説がある。地内には浅瀬山城があるほか、飯の山城跡もある。

 元禄年間(1688~1704)に家内村を分村したと思われる。氏神は大避(おおさけ)神社。この神社は飯の山の南面中腹にあり、9世紀に赤穂坂越(さこし)村の同名社より家内(けない)村の背山の麓に勧請し、のちに現在地に移したという。コヤスノキ社叢林は県指定天然記念物。明治20年千種川畔に金刀比羅宮を建立。高瀬船の舟着場が金刀比羅宮横にあり、年貢米は近郷の村々や作州英田郡方面から牛で運搬、ここから赤穂へ舟積みして送り、さらに海上を大阪・江戸の幕府倉庫へ廻送。上・下2か所に御蔵がある。藩から出張する役人詰所はお役所といわれた。また、浜街道筋でもあることから物資の集散地となっており、門屋・商人・旅籠屋などでにぎわった。

 天明元年(1781)から4年まで、夏季の日照が少なく低温で雨多く、米価が暴騰し、米1石130匁・麦1石105匁に達し、葛(くず)・蕨(わらび)の根を掘り、わら芯を刻んで団子にして食した。慶応2年(1866)大日山村・西新宿村などの餓死寸前の住民が当地の米屋・酒屋などに押し掛けた。一部は打毀(うちこわし)にあい、大黒屋(高見家)には斧の伐り込み跡が残る。

 

 明治6年秀潤小学校設置。22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、昭和33年からは上月町の大字となる。

 明治23年出水で全戸浸水、全員宮山に非難。同2532年、大正7年にも大水害。明治31年台風で25戸全壊、明治30年水稲にウンカ大発生、収穫半作という。明治30年頃から、わら芯切りが米麦作に次ぐ農家収入となり、畜産・養蚕がこれに次ぐ。物品販売の商店・飲食店・理髪店・旅館も出現、町としての条件が整いはじめる。大正8年播美自動車の乗合自動車が、上郡~平福間を運行、停車場が設けられた。同9年双観橋架橋、県費37,000円、鉄筋コンクリート、路面はアスファルトを塗る。同12年電灯架設。

 

     家内(けない)

久崎村の南東、千種川の東岸に位置する。千種川中流域に広がる平地。地名の由来は、川端の湿原で、毛無(無収穫地)が転じて家内と成ったと思われる。村名は、正保郷帳には見えず、元禄郷帳に「古ハ久崎村」の注記付きで村名が見えることより元禄年間(16881704)に久崎村から分村したと思われる。

 

明和元年(1764)・同5年・同8年・同9年・寛政8年(1796)・弘化4年(1847)は大洪水により、田畑浸水。昔は護岸がなく、出水のため田畑が流失・荒地・開墾・河成と、検見ごとに項目が入り交じり、免租になったものが多くあった。

 千種川の下流の大酒村との間で天保3年(1832)当村の要水落しを妨げない、舟道を妨げないなどの覚書を交わした。この慣行が現在も守られている。氏神は久崎村の大避(おおざけ)神社集落背後の山腹に行基開創と伝える清林(せいりん)寺があり、寺内に室町時代の宝篋印塔1基がある。

 明治20年千種川沿岸の道路を県道に編入。同22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、同33年からは上月町の大字となる。明治30年頃から副業として、畜産・養蚕を導入、冬季はわら芯きりを営み、昭和25年前後まで続いた。明治41年播美馬車が久崎に創立、上郡~大原間の輸送を開始、便利になった。大正12年各戸に電灯架設。

 

     今回の発見

・久崎は、水陸交通の要衝に位置し、元和元年(1615)に高瀬船が通じ、以後佐用郡内の諸村の年貢米や物資が運びこまれた。物資の集散地としておおいに賑わった村であった。同時に、千種川と佐用川の合流する場所であり、川の氾濫に悩まされた集落でもあった。

・明治41年播美馬車が久崎に創立、上郡~大原間の輸送を開始、大正8年播美自動車の乗合自動車が運行。今では、旧国鉄時代の智頭線の路線凍結(昭和55)を乗り越え、平成6年より第三セクターの智頭急行(上郡~智頭)が地域発展の夢を乗せている。

 

「E-宍粟」支援隊そーたんs


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地名の由来「久崎・家内」(上月町) - 10/11/02 13:17 (タケネット)